好きの中に嫌いがある。尊敬の裏に見下しがある。得意なことと苦手なことは、いつもセットで存在している。
きれいなものだけを見ていたい。矛盾のないまっすぐな気持ちでいたい。でも実際には、私たちの中にはいつも相反する感情が同居しています。
ピアノを教える中で、子どもたちと向き合う中で、日々の暮らしの中で、私が感じている「矛盾」のこと。そして、その矛盾こそが深みを作ってくれるのかもしれない、という話です。
好きと嫌い
私は音楽が好きです。ピアノが好きです。でも、ピアノが嫌いになりかけたことも、正直に言えば何度もあります。
練習が苦しいとき。思うように弾けないとき。「なんでこんなことやっているんだろう」と思ったことも、一度や二度ではありません。
でも振り返ると、その「嫌い」の時間がなかったら、今の「好き」はこんなに深くなかったと思うんです。嫌いになりかけて、それでも離れなかったからこそ、好きの意味が変わっていった。
レッスンに来るお子さんの中にも、「ピアノ嫌い」と言う日があります。そのとき私は、あまり慌てないようにしています。なぜなら、嫌いと言えるのは、好きだった時間があったからこそ。本当にどうでもいいものに対して、人は「嫌い」とは言いません。
好きの反対は嫌いではなく、無関心だとよく言われます。「嫌い」と言ってくれるうちは、まだそこに強い感情がある。その感情を丁寧に扱ってあげれば、また「好き」の形に戻ってくることが多いです。
好きと嫌いは敵同士ではなくて、同じ根っこから伸びた二本の枝のようなもの。片方だけを切り落とすことはできないし、する必要もないのだと思います。
尊敬と見下し
これはとても書きにくいことですが、正直に書きます。
私の中に、人を見下す気持ちがまったくないかと聞かれたら、「ない」とは言い切れません。誰かの演奏を聴いて「自分のほうが上手い」と思ったことも、誰かの教え方を見て「それは違うのに」と思ったこともあります。
でも同時に、自分よりも遥かに素晴らしい演奏をする人を前にして、心の底から「かなわない」と感じる瞬間もあります。尊敬と、少しの嫉妬と、「自分もあんなふうに」という憧れがごちゃ混ぜになった気持ち。
見下しの感情は、持っていることを認めたくないものです。でも、それを「ない」と蓋をしてしまうと、自分の中で何かが歪んでいく気がします。
大切なのは、見下しの感情を「持たないこと」ではなく、「それに気づいていること」ではないかと思います。「あ、今、私は上から見ているな」と自覚できたとき、初めてその気持ちを手放す選択ができる。
子どもたちを見ていると、この感覚をとても素直に持っています。「あの子のほうが上手い、悔しい」と正直に言える。大人よりもずっと健全に、尊敬と悔しさを同居させている。その素直さに、私が教えられることのほうが多いです。
得意と苦手
ピアノを教えていると、「この子はリズム感がいいな」「この子はメロディを歌うのが上手だな」と、それぞれの得意が見えてきます。でも同時に、「左手の動きが苦手だな」「楽譜を読むのに時間がかかるな」ということも見えてくる。
面白いのは、得意なことと苦手なことが、まったく無関係ではないということです。
たとえば、感受性が豊かで表現力のあるお子さんは、繊細であるがゆえに人前での演奏に緊張しやすい。テクニックを正確にこなせるお子さんは、几帳面であるがゆえに間違いを極端に恐れることがある。
得意と苦手は、同じ性質の表と裏なのだと思います。片方だけを伸ばして、片方をなくすことはできない。苦手をなくそうとすると、それと表裏一体だった得意まで薄くなってしまうことがあります。
だから私は、レッスンの中で苦手を「克服」しようとはあまり言いません。苦手があること自体は、悪いことではない。それよりも、「あなたの得意はここから来ているんだよ」と伝えたい。苦手の存在を許容できたとき、得意はもっと自由に伸びていくように見えます。
お子さんの苦手を見つけたとき、それは同時に、その子だけの得意の種を見つけたということでもあります。苦手の裏側にある才能を見つけてあげることが、教える側にできる一番大切なことかもしれません。
芸術と資本主義
ピアノ教室を運営するということは、芸術と資本主義の間に立つということです。これは、私がずっと抱えている矛盾です。
音楽は本来、数字では測れないものです。「何曲弾けるようになった」「コンクールで何位だった」という成果で語れるものではない。お子さんの心の中で何かが動いた瞬間、音楽と一体になれた数秒間、そういう目に見えないものこそが音楽の本質だと思っています。
でも、教室を続けていくためにはお月謝をいただく必要がある。「成果」を求められることもある。保護者の方が「うちの子、上手くなっていますか?」と聞きたくなる気持ちも、とてもよくわかります。
この矛盾に対して、私は「どちらかを選ぶ」ことをやめました。
芸術だけを追求して経営が成り立たなければ、教室は続けられない。逆に、数字や成果だけを追いかけたら、私が大切にしたい音楽の本質は失われてしまう。
だから両方を抱えたまま歩く、と決めています。
レッスンでは、目に見える成長も大切にしながら、同時に「今日の音、きれいだったね」と、数字にならないものも言葉にして伝える。発表会のプログラムを作りながら、お子さん一人ひとりの心の状態にも気を配る。
矛盾しているかもしれません。でも、その矛盾ごと引き受けることでしか出せない「教室の味」みたいなものがある気がしています。
矛盾を抱えたまま、子どもと向き合う
子どもと向き合うとき、私たちは常に矛盾の中にいます。
自由にさせたいけれど、しつけもしなければならない。褒めたいけれど、注意もしなければならない。待ちたいけれど、背中も押さなければならない。
その矛盾を「解消」しようとすると、どちらかに偏ってしまいます。自由すぎるか、厳しすぎるか。褒めすぎるか、叱りすぎるか。
でも、矛盾をそのまま抱えていい、と思えたら。
「今日は自由にさせた。明日は少し枠を作ろう」「さっきは褒めた。でもここは注意しよう」と、その場その場で揺れながら判断していい。矛盾を持ったまま揺れていることこそが、誠実な向き合い方なのかもしれません。
子どもたちは、完璧な大人よりも、矛盾を抱えながら一生懸命やっている大人のほうをよく見ています。少なくとも、レッスンの中で私はそう感じています。
音楽の中にある矛盾
音楽そのものが、矛盾でできています。
明るい曲の中にも、どこか切ない響きが混ざっている。悲しいメロディの中に、不思議な温かさがある。テンポが速い曲なのに、どこか落ち着いた気持ちになれる。ゆっくりした曲なのに、心臓がどきどきする。
単純に「明るい曲」「暗い曲」と分けられるものは、実はそれほど深くない。本当に心に残る音楽は、相反する感情が共存しているものが多い。
子どもたちの演奏にも、同じことを感じます。
最初は「間違えないように弾こう」と思って弾いている。でもある時期から、間違いを恐れない演奏ができるようになる。正確さと自由さが同居し始める。その瞬間、音が変わります。技術的に完璧ではなくても、「この子の音だ」と思える演奏になる。
矛盾が共存したとき、音楽に深みが生まれる。それは、人間にも同じことが言えるのではないかと思います。
深みとは、矛盾を許すこと
「深い人だな」と感じる人に共通していることがあります。それは、矛盾を排除していないこと。
白か黒かで割り切れる人は、わかりやすい。でも、その「わかりやすさ」はときに薄っぺらく感じてしまうことがあります。
一方で、「好きだけど、ここは嫌い」「尊敬しているけど、こういう部分は違うと思う」と、矛盾をそのまま抱えている人は、言葉に厚みがある。判断が偏らない。優しさの中にも厳しさがあって、厳しさの中にも優しさがある。
私自身がそうなれているかどうかはわかりません。でも、少なくとも目指したいのはそういう在り方です。
子どもたちの前で「先生はいつも正しい」という顔をするのではなく。「先生も迷うことがあるよ」と、矛盾をそのまま見せられる大人でいたい。
完璧であろうとするよりも、矛盾を抱えたまま誠実でいること。それが、子どもたちにとっても、音楽にとっても、一番正直な向き合い方なのかもしれません。
暮らしの中で
日常の中にも、たくさんの矛盾があります。
子どもには自分で考えてほしい。でも、つい口を出してしまう。もっとゆっくり過ごしたい。でも、やらなければならないことが山のようにある。仕事が好き。でも、子どもともっと一緒にいたい。
こうした矛盾を感じるたびに、「どちらかに決めなければ」と焦ることがあります。でも最近は、決めなくてもいいのかもしれない、と思うようになりました。
口を出してしまった日は、「明日はもう少し待ってみよう」と思えばいい。忙しい日は、5分でもいいから子どもの顔を見て話す時間を作ればいい。どちらかを完璧にするのではなく、矛盾のあいだを行ったり来たりしながら、自分なりのバランスを探し続ける。
そのバランスは、毎日変わります。それでいいのだと思います。
ピアノノギフトは、矛盾を抱えたままのお子さんを、そのまま受け入れる教室です。
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